素晴らしき日々<後>


「ってめえっ!」

 肩を押されどんという鈍い音と一緒に背中に鈍痛が走った。
 壁に押し付けられる。
 大した抵抗もできずに顔をゆがめたキラに彼は満足そうに口元をゆがめた。

 ――否。
 できないとしない違いは大きい。

「どうする? こっちの条件のむ?」
「はっ、ふざけんな」
「ああ、そう」

 ふっと笑みさえ浮かべて、キラは自分のシャツに手をかけた。
 何をするつもりだと訝しげな顔を心底嘲笑いながら。

「なんだ? 大人しく身体差し出す気になったって?」

 口元に笑みを刷いたまま、キラは手に、力を入れる。
 ぶちっと引きちぎれるような音と共に、何かがはじけ飛ぶ音がした。
 カツン、と静かな部屋に響き渡る。
 軽い音。

 白い肌があらわになる。
 そこには赤い花が散る。
 男の目がそれに釘付けとなるのを見ながら、キラはさてと切り出す。


「条件がのめないっていうんなら、僕はこのまま校長室にでも駆け込んで、君の名前を出す」

 さっと顔色が変わるのを爽快な気分で見つめた。
 それでもできないとでも思っているのだろうか。
 ひきつったような顔をして、まだ言い募ってくる。

「おいおい、俺は指一本触れてないぜ?」

 ならば先ほど肩にはしった痛みはなんだというのだ。
 嘘ばかりつかないで欲しい。

「事実なんてどうでもいいんだよ? 証拠さえあれば。僕が泣きながら駆け込んでいけば、さて、この姿を見てどう思うのかな。はは。強姦?」
「そんなことすりゃお前明日にでも晒しもんだぜ」
「さあ、どうかな」

 そんなことは実際やってみなければわからない。
 もう人も部活やらなんやらで校舎にはあまりいないことだし、とりあえず職員棟までいってしまえばあとはなんとかなるだろう。
 たとえ見つかってしまったとしても、そこは演技力の勝負だ。
 泣きついてそれでいてキラを笑いものとするような、そこまでバカな奴はなかなかいない。
 まあいたらいたで他の方法をとればいい。
 方法など腐るほどあるのだ。
 脅すという一つの方法しか見つけられなかった目の前のバカと違い、こちらには頭というものがあるのだから。


 苛立たしげな舌打ちに、そろそろかなと思う。

 この手の人間というものは、概して物事を自分で処理しきれなくなったとき、とる行動は同じ。

 さすがに壁が後ろでは動きづらい。
 少しずつ机を後ろへと移動していく。
 キラが何をしようとしているのか。
 普通の状態であったならば、いくらこの男でも気がついただろう。
 しかし頭に血が上りきった状態で、冷静な判断を求めてもそれは無駄というものだ。


「とりあえずそんな無駄口叩けなくしてやるよ。可愛い顔してるから話ぐらいしてやろうと優しくしてりゃ、つけあがりやがって。なんだよその恰好は。誘ってんのかよ、このカマやろーが」

 振り上げられた拳が直線状にキラに向かってきても、キラはさけようとはしなかった。

 ギリギリまで。

 あと少しであたる、というところでキラは身をひねった。
 こういう手合いには自滅が一番お似合いだ。
 勢いあまって机につっこんでいった所を後ろから、綺麗にきまった回し蹴り。

 さて。
 どこまでなら正当防衛として認められるだろうか。
 しばし考えみたが、相手がどうも復活しそうなので思考を中断した。
 どうせアスランがもみ潰すだろうと思って。

「なめた真似しやがって。このくそっ。後悔させてやるからな」

 つかみ掛かってくるその手を振る払おうと構える、その一瞬、キラの視界にちらりと見慣れた色が映った気がした。
 その一瞬が命取りとなる。
 とりあえず場数はそれなりに踏んでいるのか、気が散ってしまったそのコンマ数秒で、これは形勢逆転というのか、キラはもう一度したたかに背中をうちつけた。
 こんどは机に。
 今日は正上位はやめたほうがいいかもしれない。
 きっとあざにでもなっているに違いない。
 もっともそれを彼氏が聞き分けてくるかどうかは、限りなく不安なところだ。


「っごほ、……っつー」
「へっ、大人しくしてりゃ痛いめみなくてすんだのによ」

 押し付けてくる頭を、キラはもう押し返したりはしなかった。
 もういい。
 終わり。


 タイムリミット。


 ゲームオーバー。




 そっと目を伏せれば、何かがきしむような音と共に身体が軽くなった。
 続いて倒れる音とぶつかる音と、せきこむそれとうめき声。

 疲れたとばかりに目を閉じたままでいると、手を引かれふわりとしたぬくもりがキラを包んだ。
 そっと目を開く。
 とたんうめつくされた翠にキラは笑った。

「遅い」

 と文句を言いながら。


「ごめんね。無事でよかった」
「無事なものか。最悪な気分だよ。それだけで万死に値するね」
「なるほど」

 上着をキラの肩にかけ、邪気を全く見せずに微笑んだ幼馴染は、キラの額に唇を寄せると何を思ったか、さきほど蹴り飛ばした男へと足を進める。
 好きにしてくれとキラは天を仰いだ。
 ついでにご愁傷様、と。

 血を吐くような叫び声をBGMにキラが考えることといえば、今日の夕飯はなんだろうとそのレベルでしかない。

 しばらくして静かになった。
 何気なく振り返ってみると、名前も知らない男は血まみれで倒れている。
 意識は……、たぶんしばらく戻らないだろう。
 ほっとけば死んだりするだろうか。


「ひどいね」
「万死に値するんだろ?」

 終わった?と問いかけるキラに彼はまだまだ生ぬるいと言う。
 自分の手で殺したいというのなら、別に止めはしないけれど。
 けれどやっぱり嫌だなとは思った。
 彼の、アスランの手が血で汚れることがではない。
 アスランの綺麗な手――正確には足だが――が、あんな下衆に直接ふれることにだ。
 そんな価値すらない男なのに。


「で?」

「何?」

「実際はいつからいたのさ」

 きっと出てきたその時にたどりついて、慌てて飛び込んできたのではないはず。
 長い付き合いだ。
 それぐらいはわかる。
 キラが気がついたのは本当にその時初めて、だったのだが。
 なんだかむかついてきた。
 キラが口を開くのも面倒だと思うその横で、その姿を楽しんでいたものがいたという事実が。
 ひどく腹立たしい。
 気付かなかった自分も自分だが。

「そうだね。不純同姓交遊がどうのとかいうところからかな」
「ほとんど最初からじゃないかっ!」
「そうなのか? ちょっとキラが何を言うか気になったんだよ」
「悪趣味」

 悪びれない態度に疲れも呆れも通り越してもはや尊敬の域だ。

 顔を背ければのびてきた手にシャツを落とされ、後ろ向きにされた。
 そっと顔をよせてくるのがわかる。
 ずきん、と腰が響く。

「いった」
「痣になってる。すぐ消えるだろうけど」

 ぐっとそこを押されて、何をするのだと叫びそうになった。
 先ほどとは反対に机に押し付けられてため息がでそうになった。

「まさか、ここでするつもりとか言うわけ」
 

 答えの代わりに口付けられた。
 ただ、その場所が痛みを訴える場所であったことは本当に悪趣味以外のなにものでもない。

 そんなところをきつく吸っても、痣になってしまっているのならば痕もつかなければ、キラにとっては痛いとしか思えないのに。

「外のほうが興奮しない?」
「何バカなこと言ってるんだよ」
「見られるんじゃないかっていうギリギリ感がね」
「っ。実際に見られてりゃ世話ないだろ」

 それはそうだと笑う。
 暢気な答えに殴りたくなった。
 こっちはこんなに疲れたのに。
 たいしたことないとはいえ、怪我までさせられて。
 しかもあんな奴に。

 それなのにアスランは。

 本当に愛されてるのかと疑いたくなってくる。
 いや、愛されているなどそんな生ぬるい言葉で、彼の執着を表現する気はないけれど。

「でもキラ? 俺以外の男を誘うなんて、許せないね」
「……うるさいな」

 止めずにただ聞いていたくせに。
 しかしそれはそれとして、この話題はいささか勝ち目が見えない。
 掘っていけば必ず埋められるのはキラのほうだ。

 仕方なしにそのうるさい唇をふさいでやった。

 いささか……、体制は苦しい。
 もしかしなくてもバックで押し倒してきたのは、キラの腰を気遣ってのものなのだろうけど。
 どうせ気遣うのなら家まで我慢するとか、なんで他の選択肢はさっさと切り捨てられてしまっているのか。


「それにしてもさ。脅すなら脅すでもうちょっとうまくやるべきだよね。頭使って。ね? あまりにちゃちすぎてまともに相手する気も起きなかったよ」
「それは……、もしかして俺に対する遠まわしな厭味だったりする?」

 苦笑しながら耳元で囁かれ、思わずびくりと反応してしまった身体にアスランがくすりと笑う。
 うるさいと言って蹴ったら、怒る怒らないの前にあたるだろうか。
 アスランとの場合はまずそこからだ。
 まったくもって気が重くなることだ。


「へえ? 厭味言われるようなことした覚えがあるんだ」
「ねえキラ。俺は別にキラの弱みを握ったりなんかはしてないよ。むしろ俺の弱みを握ってるのはキラのほうだろ」

「弱みが僕だから? バカにしてるよ、それ。捨て身にならなきゃ君に傷一つつけられないってことじゃないか。ってゆーか、あれのどこが脅してないっていうんだよ」


 あれ、とキラは言った。
 もう何年前になるだろうか。
 アスランが二つの選択肢を、それ以外選べない状態を築きあげた上でキラにつきつけてきたのは。

「二つに一つ、とか僕にとっては本当究極の選択だったよ」
「俺と離れるか、それとも俺のものになるか、どちらか選べ?」
「そう、それ」


 もう限界だから、と初め言われたときは何がなんだかわからなかった。
 ただ強く思ったのは、いかないで、いってしまわないで、手を、離さないでとそれだけ。
 涙ながらにすがりついた自分は、確かにまだ幼かった。
 今なら違う選択をするのか言われれば、もうどうしようもないところまで堕ちてしまっている自分がいるのだけれど。
 それにしても早まったと思わずにはいられない。


「限界、だったからね、俺も。有無を言わさず押し倒しそうになったことは片手じゃ数え切れなかったし。だからせめて選ばせてやろうと思って」
「……それで僕が君と離れることを選んだらどうするつもりだったのさ」
「さあ、どうしたかな。離れようとは、するだろうね。キラを傷つけたいわけじゃないし。ただ、どうかな。キラは離れられなかったと思うよ。俺はそれだけのことをしてきた」
「なるほどね。僕はまんまとはめられたわけだ。純粋でものすんごく可愛かったもんね、昔の僕は。君って最悪だよ、アスラン」

 悪態をつきながら、名を呼ぶ声は甘い。

「今も十分可愛いと思うけどね」









back



(一言)
別人28号(……一回言ってみたかった)
ええと。うん。やけに甘い気がします。