おしのび


 差し出された果物を受け取ったキラは、ふと顔を上げ、思わずそれを歪めた。
 まずい。
 ゆっくりしすぎたらしい。
 視界の端に宵闇色がちらつく。
 その翡翠が認められないところを見ると、どうやらまだ見つかったというわけではないらしいけれど。
 けれどこちらからわかったということはあちらからもわかる位置にあるということ。
 見つかってしまうのは時間の問題だろう。
 キラは小さく嘆息し、きびすを返した。



 なんでなんだろう。
 城を抜け出してまだそんなにたっていないのに。
 なんでもうすでに見つかりそうになってるんだろう。
 だいたいなんでこんなに早く抜け出した事実に気付いたのか。
 どうして真っ直ぐここに向かってこれるのか。

 不思議でならなかった。


 が、考える暇もなかった。


 すぐそこの洋服屋を右に曲がれば広場だ。
 せめてそこまで逃げなければならない。
 つかまって連れ戻されるなど冗談ではない。
 どれだけのリスクを犯して抜け出してきたと思うのだ。
 あとでちゃんと怒られるから、とまでも思ったのに。
 大して楽しめずに怒られるだけなどとそんなこと、考えたくもない。
 とりあえず人の溢れるあそこまで逃げられたら、そうそう見つかることはないだろう。
 そうあたりをつけたキラは、駆け出した。



 それがいけなかった。
 追っ手ばかりに気をとられていたせいか、前方への注意が薄れてしまっていたキラは、鈍い衝撃とそれに続く鈍痛を自覚したところでやっと目の前の障害物に気付いたのだ。
 そして、吹き飛ばされたという事実にも。
 さらにそれがぶつかるべきではない人物だったということも。
 まったく頭が痛くなってくる。
 なんだって悪いことというのはこうも続くのか。

 短く刈り上げられた頭に口元に浮かべられた人を馬鹿にするような笑み。
 キラがぶつかったぐらいじゃ大して動かされもしなかったくせに、こちらを睨みつけてくる目は穏やかでない。
 人相が悪いなあ、とはキラの第一印象だが。


「おい、お前どこ見てんだよ、ああん?」

 低い声を発し、キラの胸倉を掴んだ彼は無理矢理に身体をひきあげてくれる。
 首がしまって苦しかった。
 道行く人はみな見て見ぬふりだ。
 当然かもしれないけれど。
 誰だって厄介ごこには巻き込まれたくない。
 キラもできることなら野次馬になりたかった。
 もっとも野次馬に徹することができるかと問われれば、悩んでしまうが。


 しかし言っていることはなんて理不尽なんだろう。
 前方不注意はお互い様ではないのか。
 確かにキラも、だったが、この男も、であるはずだ。
 その上キラは飛ばされ痛い思いをした一方彼のほうには、何のダメージもなかったところをみると、一方的にキラがぶつかったのではなくむしろ彼にぶつかってこられたのだということまでもわかる。

 運が悪かったと言ってしまえばそれまでだが。


 いや、キラにとってもその男にとっても。


「なんとか言ったらどうなんだよ」

 なんとか言えといわれても、足がつくかつかないかのところでぶら下げられていれば苦しくて、言葉も出ないのだが。
 わかってるのだろうか、自分が何をしているのか。
 相手がどんな状態にあるのか。

 余裕はあった。
 そして彼に勝つ、体格の全然違う彼に勝つ自信もあった。
 が、もうそんな疲れることをしようとは思えなかった。
 そんなことすればまた一つ、怒られることが増えるのだ。
 危ないことをするなと言って。
 怪我をしたらどうするのだと言って。
 この間それに治療すると答えたらさらに機嫌が悪化した。
 こっちはこっちでもうどうしていいかわからない。

「はな……し、て」
「はっ、ふざけんなよ、こら。人様にぶつかっておいて謝りもなしかあ? 最近のガキは教育がなってねえなあ」
「それは悪かったな」
「……なっ!?」

 悪いと言いながら少しも悪いと思っていないはずの声が男の後ろから聞こえた。
 キラの身体が宙に投げ出されたのはその瞬間だ。
 地面に叩きつけられることを覚悟し、受身の態勢をとろうとしたが、たぶんもう間に合わない。
 せめて少しでも痛くありませんようにと願う。
 だが、その衝撃はいつまでたってもこなかった。
 代わりに投げ出された身体を弾力のあるクッションが受け止める。


「大丈夫か?」

 苦い声は先ほど悪びれもなく悪いと告げた声と同じ。
 腕の中で呆然と上を見上げれば宵闇色の髪が額にかかった。
 翡翠も、今はキラをとらえている。

 そして、もう確認する必要がないほどに、怒っている。
 キラの好きなその翡翠は、今とても冷たい色をのせて。

「…………平気」

 頷いたキラを彼はそっと下におろすと、さてと言ってキラとぶつかった男に向き直った。

「お引取り願おうか。今なら見逃してやる」
「おいおいおい、何寝ぼけたこと言ってんだ……っ」

 男が声を引きつらせ、遠巻きに眺めていた人々からも驚愕の声が漏れる。
 キラはキラで空を仰いでため息をついた。

 まぶしい。
 太陽が。
 その光を反射する刃が。
 一点の曇りもないそれが、男の首元に突きつけられた。
 いつ抜いたのだと問いかけたくなる速さで。
 それを確認できた人間はどれだけいただろうか。
 キラがわかったのは慣れでしかない。


「お前ごときが触れてよいお方ではない。代償はその命といこうか?」
「ひっ」

 力に頼るものは得てして力に弱い。
 対峙して彼の実力を測れないものならば切って捨てるだけのことすらもったいないと思うが、どうやらそこまで愚かでもなかったらしい。
 とはいえ十分に愚かではあったが。

「さっさと去ね」

 眼光に負けたか。
 悪態すらでてこずに、逃げるように走り去る巨体をキラはただ眺めていた。
 殺されなくて良かったねと人事のように思いながら。
 本当に怪我も何もなく終わったのは奇跡に近いと思う。
 きっとその分のしわ寄せが全部キラのほうにくるのだろうが。
 気が重い。
 悪いのはキラだとわかってはいるが、それでも気は重い。

「あ、す……っ」

 機嫌を伺うように見上げるキラに、護衛という肩書きをもつ彼は答えない。
 無言でキラの手をひくと、その身体を立たせ人ごみにわけ入っていく。
 キラの手は放さずに。

 きつく掴まれた手が痛い。
 彼の気持ちをすべて表しているようで心も痛ければ頭も痛かった。


「どこに……?」

 何を聞いても答えてくれる気がないのはわかっていた。
 けれどそれでも聞いてしまったのは、てっきりまっすぐ城に帰っているのだと思っていたアスランが店に入っていったから。
 必然的にキラは引きずられる。

 飲み屋……のようではあったが、まだ開店前なのかいるのは女性が一人。
 ゆるく波打つ長い金糸の髪を弄ぶ綺麗な女性。

「いらっしゃい、久しぶりねアスラン。って言ってもまだ開店前よ?」
「飲みに来たわけじゃない。部屋を借りる」

 端的な言葉に女性は肩をすくめた。
 慣れているのだろうか。
 呆れた様子で他に何かご要望はと聞いてくる。
 アスランはそれにないと簡潔に答えただけだった。

「そうとう機嫌悪いのね」

 呟かれた声がキラを責めているように感じたのは、被害妄想でしかないのだが。

「アスラン」

 小さく呼んでみた。
 答えてくれるはずもなかったが。
 届いているのか届いていないのか。
 それがわからないのがとてもじれったい。

 3つあったドアの一番奥を開けるとアスランはキラをその部屋に放り込むように連れ込んだ。
 仮にも主人に対してすばらしい扱いだ。
 それだけ怒ってるってことはわかっているのだけれど。
 それにしてもいささか規格外なのは否めない。
 それを咎めるつもりなどキラにはないけれど。
 それはそれとして、もうちょっと丁寧に扱ってくれてもバチはあたらないのではないかと思うこともある。

 かつんと床をけるアスランの足音が異様に大きく響いた、と思ったのは後ろめたいことがあるせいか。

「さて。キラ」
「…………はい」
「何か言うことは?」

 ない、と言ってしまうこともまた反対に、ごめんなさいと謝ってしまうのも、それだけならば簡単だ。
 難しいのは何を言った場合彼がどう言い返してくるのかであって。

 けれども選択肢などこの場合あってないようなものだ。

「ごめなさい」
「それは何に対して?」
「ぬ、抜け出したこと」
「…………だけ?」

 悪いのはわかってる。
 わかってはいる。
 わかっているのだが、こうもきつく責められると反抗したくなるのは本当に不思議だ。

「……とりあえず」
「へえ?」

「助けてもらったのは、それは……まあ助かったけど。でもあれぐらい僕でもどうにかなったし」

 むしろ助けてもらうなどとこちらのプライドを踏みにじるようなことをしてくれたというのはいただけない。
 まあしかし、その前に護衛というアスランの仕事を踏みにじるようなことを先にしたのはキラなのだが。
 綺麗にそのことは忘れていた。

「なるほど。それじゃあその前は?」
「前?」
 何かあっただろうかと首をひねるが、思い当たる節はない。

「俺の顔見て逃げたのはどこの誰だ?」
「……っ! な、何、気付いてたの!?」

 気付かれる前に逃げたと思ったのに。
 うわあとキラは天井を仰ぐ。
 いっそあそこでつかまっていたほうが良かった。
 罪状は一つですんだし。
 なんだか踏んだり蹴ったりだ。


「あれはっ」
「まあ、いいけどね。言いたいことも何がしたかったのかもわかるし。でもね、キラ、俺に黙って抜け出すのはいただけないな。勝手に抜け出して出歩いて怪我でもしたら、怪我ならまだいい、取り返しのつかないことになったらどうするつもりだ」
「大丈夫だよ」
「浅慮だな。万が一ということを考えろ。お前の身体はお前一人のものじゃない」

 正論だ。
 非の打ち所が無い。
 キラのほうが完全に分が悪い。
 けれど、そうやってキラ一人のためにあたふたしている彼を見るのが好きなんだとか言ったら…………。
 やはり怒るだろうな。

「で。なんで僕はこんなところに連れ込まれたの?」
「外に出たかったんだろ。早々に連れ戻されたらかわいそうかと思って? ただし。言うこと聞かない子には先におしおきだな」
「監禁されてたら外に逃げ出した意味がないんだけど」








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(一言)
ありえない。ありえない。なんだこの尊大な従者は。