そこは、馬も使えないような、足場の悪い森だった。 森に足を踏み入れて早数時間。 すでにアスランは迂回路をとるべきだったかと、今さら考えても遅いことを考えだしていた。 ただ迂回路をとると10日以上余計にかかってしまうらしい。 一刻の猶予もない、とは言いすぎだが、それでも決して時間があるとはいえない――本音を言えば、一分でも一秒でも無駄にできる時間はないと、実際がどうであれ、アスランは思っていた――身分だということで、大して悩みもせず森への道を選択したのだが。 しかし迷ってしまったら意味はない。 幸運なことにまだ、迷ってはいなかったが。 けれどいつ迷ってしまうかわからない。 不安は徐々に大きくなる。 一人きりで歩いているせいかもしれない。 一人にはなれていたし、むしろつるむよりも楽だと常々思ってはいたのだが、それでも集団心理というものは無視できない存在らしい。 もっともここで人数が増え、足が遅くなるというのは最も嫌うべき状況ではある。 なかなか複雑だ。 と、文句だけを言っていてもどうしようもない。 気を取り直してアスランは少しばかり足を速めた。 どれぐらい歩いただろうか。 日が沈みかけていた。 少し早いが今日は、ここまでにしておいたほうがいいだろう。 急いでいるとはいえ、明日距離を延ばしたいのなら、休息が最も必要なものとなる。 その考えに傾いたのは水の音が聞こえたからだった。 実際数十メートル進めば、開けた視界に青が広がった。 澄んだ青。 人の手が届かないそこにあるものは、ただただ美しい。 岸にはテントをはるスペースも十分ある。 今日の予定は決まった。 ―――――ピシャン と、魚でも――いやもしかしたら魔物かもしれない――いるのかと音のしたほうに自然目をやれば。 ―――人魚? 違う。 場かなことを考えてしまった。 だいたい人魚は淡水の生物ではない。 軽く頭をふって、目を細めればパシャンという軽い音と共に、湖の中央で水しぶきがあがった。 その合間に細い、…………たぶんあれは腕だ。 人の。 ついでその人と思われるそれが顔をあげたことで、予測は確信に変わった。 ただし。 何故こんなところに人がいる? 自分のことはしっかり棚にあげたが、だが街の人間はこの森に入っていく人間などそう数の多いものじゃないと言っていた。 その上この広さだ。 同じ時間に同じ場所で人間が二人居合わせるとは。 何の運命だろうか。 沈みかけた太陽の最後の光をうけて金色に輝く髪を振り乱し、彼だか彼女だか、とりあえず人間と、アスランは目があった。 一瞬の邂逅。 しかし永遠にも近いそれ。 滅多に目にすることはない、紫の瞳が時間の流れを狂わせた。 ――――バッシャンッ 先ほどと変わらない、なのに何故かとても大きく響いた音で、ようやくアスランは我に返った。 我に返って、あらためてそれを見た。 金に見えた髪は実際はブラウンらしい。 金の美しい髪は賞賛されるものだ。 だがアスランは別段惜しいとは思わなかった。 ブラウンの柔らかな色は、むしろその紫の瞳とよくあっていたから。 目が離せないとは一体何故か。 何かにとり憑かれたように微動だにしないアスランに、紫の瞳の主は首を傾けて見せた。 そこまで広くない湖をアスランのほうに泳いでくる。 足がついたのか少しずつ水の上に現れる肢体は、まぎれもなく男のもの。 …………自分でもよく見慣れた。 だというのにどうしてなのか、目を逸らしたいような気恥ずかしい気分に襲われ、同時に、その細く引き締まった女性的でない、かといって男性的でもない躯に目は釘付けとなる。 彼に羞恥というものはあるのか。 いや、それ以前に警戒心は。 何もまとわぬまま、一定のスピードをたもち、ゆっくりとアスランに近づいてくる。 張り付いた髪をかきあげるそのなんでもない仕草が、やけに扇情的に映った。 彼は本当に一歩も動けないアスランから、たった一歩分だけを残して止まった。 すっと伸ばされた手に、人間ではなくやはり魔物だったかと思うがもう手遅れだ。 もうとっくに、その姿をみた瞬間から囚われてしまっていたのだから。 濡れた指先が頬に触れる。 相手は裸。 常ならば刃をつきつけているはずだった。 なのに、何故。 やはり魔物だからか。 やっかいなことになった。 本当に魔物ならばとても危ない状況であるのに、アスランの頭に浮かぶものは切羽詰ったそれではない。 ふんわりと、彼が笑った。 「綺麗な目。森の色かな。違うね、もっともっと綺麗な色」 彼から紡ぎだされた言葉は、まるで謳のように耳を打つ。 「宝石の色かな。でももっと高価なものだよね」 アスランのことを認識しているのかいないのか。 人間と思われているのかいないのか。 ならば一体何と思われているのか。 オブジェとでも? アスラン本人にまったく注意を払わずに――だいたい少しでも注意を払うのならば、裸で目の前に立ったりしない――独り言を呟き、目を覗き込んでくる。 深い紫。 このような色はどこにも見たことがない。 自然にも。 贅を尽くした宮殿でも。 吸い込まれるようにそれを見つめるアスランも、また彼と同じなのかもしれなかったが。 「きれい」 ため息のように吐き出された。 「お前は、何だ?」 「ああ、しゃべった」 楽しそうにくすくす笑う彼は、一体アスランをなんだと思っていたのか。 のちに語ることとなる『綺麗すぎて作り物かと思ったんだ』と。 ただし質問の答えには全くなっていない。 「君は、何?」 「質問してるのは俺だ」 答えろ、と常人ならば怯まずにはおれないだろう鋭く睨まれて、彼はしかし笑い続ける。 「魔物か?」 「魔物に見える?」 「魔物には人間に擬態するものもいると聞く。お前は人を魅了しすぎる。魅了し絡みとって引きずりおとす。目的は何だ?」 警戒しきった言葉に、彼は心底不思議そうにきょとんと無防備な表情をさらした。 「魅了されたのは僕のほうだよ? すごくすごーくきれいな目。あなたは誰? それに、あなたがその腰につけてる剣を一度手に取れば、僕は次の瞬間肉塊となって転がると思うけど」 熟れた果実を思わせる、瑞々しい赤い唇は、その可憐さに似合わず血なまぐさいことを言う。 その瞳で動かせないようにしておきながら、よく言うと心の中でアスランは毒づく。 あるいは全く自覚がないのか。 そちらのほうがなおのことたちが悪い。 「僕は、キラ。あなたは誰?」 「俺は……」 言っていいものかと一瞬逡巡する。 しかし、その真っ直ぐに覗き込んでくる瞳に負けた。 名前によって支配する、そういうものもいると知っているというのに。 それでもいいかと、思ってしまった。 「アスラン。アスラン・ザラ。魔物じゃないのか?」 「僕はキラ。それ以外の何者でもない。僕は僕」 答えになっていない回答に、ため息をついた。 もともと現実味のともなわない現象に、まともな答えを期待するほうが失礼なのかもしれないと思って。 「とりあえず、服を着ないか?」 「あ、それもそうだね」 指摘すればくるりと背を向けた。 恥じらいもなにもないそれに、赤くなっているだろう自分のほうがおかしいのかと、本気で考えはじめたのだが。 答えはどうにもでそうになかった。もちろん彼――キラから望めるわけもなし。 そうそうに放り投げた。 そんなこともあるだろう、と。 魔物の棲む森ならば。 back (一言) タイトルに泣きたくなります。なんかいろいろ間違えてそうだ……。 |