空と海と


「みてみてみてみて〜〜〜〜っ!」
 弾んだ子供の声が軽快な足音と共に響いてきた。
 振り向くべきかとも考えたが、そんな必要もすぐになくなってしまった。
 件の子供が、朝「うさぎさん〜」と騒いでいた二つ結びの髪を振りみだしながらテーブルに飛び乗ってくださったおかげだ。べつにありがたがるわけじゃないけど。絶対にないけど。
 バンという音をたてて。
 心持ち朝よりもその結び目が下がっているのはきっと気のせいじゃないだろう。
 はしゃぎすぎ、とたぶんこれは言っても無駄だろうが。
 とりあえず、紅茶は手に持っていたおかげで被害にあわずにすんだのはよかったか。
 ……うん、よかったよ。
 きっとその場合紅茶の片付けもカップの後始末も、そして泣き出す子供を慰めるのも全てこっちにまわってきてしまっただろうから。
 軽くため息をついてちらりと前を見ると、にこにこにこにこ機嫌の良さを最大限に表現してくださってる子供の奥に、穏やかに微笑む目が見えた。
 微動だにしていない。
 慣れか性格か。
 これまでの付き合いから判断するに、性格か。
 その証拠に俺のほうはいつまでたっても、叱りの姿勢にはいってしまう。まったく同じだけ慣れてるはずなのに。
「こら、危ないだろう」
 昔は――いやぶっちゃけ今もだが――親のことを小言マシーンだと不満たらたらで文句言っていた。父親か母親かの違いはあるにせよ。だが、人のことを言えないんじゃないかだとか、その気持ちもよくわかるだとか、妙に理解が深くなってしまった自分がなんとなく寂しい。
 軽く睨めば視線をふいと彼女のほうに向けてしまった。
 なんともまあ可愛くない。
 そんな可愛くないところがまた可愛いと思う自分は、たぶん末期だと思う。
「あんね、ね、ね、きいて!」
「なんですの?」
「みてぇ!」
 何事もないように対応し、子供の信頼を一心に集めている彼女は、実は汚れ役一切を俺に押し付け自分は高みで笑っている確信犯なんじゃないかと、たまにだが、思う。
 …………それが真実でないこともしっかりとわかってはいても。
 どうも最近俺は貧乏くじだ。
 先ほどの『バン』の音の正体、スケッチブックをいささか唖然として眺めながらつらつらと考えた。
「あら、とてもお上手ですわね」
 彼女の感想に唖然が呆然に変わった。
 上手……ね?
 これが?
 どこが?
 ってゆーか、その前に。
「何? これ」
 そのスケッチブックは、ただ塗られていた。
 青一色に。
 独特なかすれ具合から察するにクレヨンで。
 まず初めにでてきた俺の感想が、『クレヨン一本で足りたのか?』だったことからも、その絵のすばらしさは十分よくわかってもらえると思う。
「わっかんないのおっ?」
 子供に不服とばかりに抗議された。
 が、俺も子供を卒業して久しい。
 しかも精神年齢診断――もちろんお遊びの――では、必ず本年齢+10から20をたたき出している。
 原因は確実に目の前の彼女だ。
 気苦労が多ければふけるのも早い。
 つまりはそういうこと。
「わかりませんの?」
 俺よりは確実に子供に近い、俺と同い年の彼女もまた首をかしげる。
 ――ちょっとわかりたくなくなった。
 降参とばかりにカップを置いて両手を挙げる。
「そらだよ、おそら! みたらわかるでしょっ!」
「ねー」
 言いたいことはたくさんあった。
 わかるかんなもん。
 ガキと一緒に首をかしげるな。
 クレヨン買い足しとかなきゃ、か?
 他いろいろ。
 しかしここはあえて大人になって我慢した。
 なんのことはない。
 興奮しすぎて涙目になってる子供のほうが気にかかったからだ。
 この可愛げのない、けれどおっそろしく可愛い子供に俺はなんだかんだいいつつ、めったら弱いのだから仕方ない。
「そうか、空か」
「そーだよ。じょうずでしょ」
「そうだね、上手だね」
 無駄ににこにこしながら褒めるのにもだいぶ慣れた。
 下手に機嫌を損ねるのは本気で勘弁したいと、自分自身のために身につけた技は、日々さらに増え続ける。
「あら? おわかりになりませんでしたのに」
 ……彼女は笑顔で毒を吐く。
 毒という自覚がないのが恐ろしい。
 憮然とした顔を作ってみせながらも、内心子供の反応にドキドキだったりする。
「たのにー」
 どうやら遠まわしすぎて理解できなかったことに、そうだな、安堵した。
「けれど。懐かしいですわね。とても」
「……何がです?」
「わたくしも似たようなことしたことをした事がございますの」
「そう、なんですか」
 とりあえずそれが正真正銘幼子と呼ばれる時代の話であることを望んだ。もし違っても暴露しないで欲しい。結構切実に。
「クレヨンで画用紙いっぱい青く塗りつぶしまして」
 ……似たようなこと?
 同じではなく?
 疑問は一応心の中にしまっておくことにする。話の腰を折る趣味はない。
 特に彼女とか彼女とかかの子とか彼女とかの。
「『海』って」
 やっぱりいつの話なのかだけは聞かないでおこうと、真剣に思った。
 懐かしいといったからにはここ1,2年のことじゃないとしても、3年4年前とかだったらいろいろと凹む。
 そのころはまだまともに俺は彼女のことが好きだったはずだから。
 ああ、青いなあ自分とかため息交じりに思えるぐらいには。
「うみ? ちがうよ、おそらだよ?」
 小さな指でさししめされたその空は、あいにくと灰色だった。
 雨でもふりはじめるかもしれない。
 もしかしたら雷も。
 その前に寝かしつけてしまいたいと考えるのは、子供が雷に怯えるからに他ならない。
 ずいぶんと父親だか保父だかわからないが、いろいろと板についてきたと一種の感動を覚える。
 もっともこれまでの月日を思えば、成長がまるっきりないといわれれば、落ち込むしかないのだが。
「あ、でも雲はかかないのかな?」
 そうだねお空だねと同意しながら言えば。
「キライだからいらないの」
 無邪気な答えが返ってきた。
 どうやら雲はにんじんやらピーマンと同列らしい。
 いらないといって皿からはじき出す。
 いっそその無邪気さが憎らしい。
「おそらはあおなの、あおはおそらなの」
「お空がとってもお好きですのね?」
 彼女がふんわり笑った。
 ああ、だからきっと昔の俺はこれにやられたんだ。
 今思えば思春期の勘違いだったとしか言いようがないし言いたくもないが。
「すきだよ」
「ではがんばってくださいね」
 たまに思う。
 子供は意味不明だ。
 話があっちこっちに飛んで、どんな思考回路をしていて、次にどんな行動にくるかまったく予想がつかないから。
 でもそれは子供であるなら当然のことで。
 むしろ理路整然とした子供なんて気味が悪いだけだろう。
 そう思う。
 でも。だが。しかし。けれど。が。
 それは子供だから当てはまることであって、なんでもうすぐ成人しようかという『お嬢ちゃん』を卒業してしまっている『お姉さん』から感じなければならないのだろうか。
「何をがんばるんです、何を」
「あら、しりません?」
「だから何が」
「そうですか」
 自己完結ってそれってどうだろう。
「ねえアスラン、空と海、どちらがお好きですか?」
「は?」
「おそらー!」
 訊かれてないんじゃないか、子供が元気よく手を上げた。
「どっち、ときかれても……。いや、別にどっちでも…………」
 いいというか、こだわりはないというか、考えたことないというか……。
「わたくしは海ですの」
 絵に描くぐらいだから当然かと思い、軽く頷いた。
「それでですね。心理テストなんですけど、青は青でも空が好きな人は上昇志向な人で」
 つまり出世だとかとゆっくりと続ける。
「ジョウショウってなにぃ? シコウってなに? ねえ、シュッセってなあに? おいしいもの?」
「違うよ。上昇っていうのはね」
「じゃあすきなもの」
「う〜ん。どうだろうね。だから上昇っていう……」
「キライなの?」
「いや、俺は興味がないってだけの話でね。それで上しょ」
「キョウミって? キウイのおともだち?」
 なんか、もういいや。
 俺はむしょうにむなしくなった。
 なんでだろうな、本当に。
「全然違うよ。語感もあんまり似てないよ」
「ゴカンってなにっ?」
 ……ああ、学習能力がないのは俺のほうか。
「言葉の感じのことだよ」
 半ば投げやりに、でもそれを隠しつつ説明するが、子供が真面目に聞くはずもなく、「いしょ」――『よ』はどこへ行ったんだ――と掛け声をかけながら膝に登ってきたので、腰を持ち上げて助けてやった。
 若干崩れてきた髪を、手が暇だったのでほどいてみたり。
 その前に紅茶を子供の手の届かないところに置きなおすのは忘れなかった。
「それで? 海はなんですか?」
 中途半端に気になる続きを促す。
「還るところを探してる人ですって」
 にっこり笑った彼女はいつもどおりで、それ以上でも以下でもなかったはずなのに、どこか儚く見えた。一瞬、だけ。
 何を考えてるかはわからない。
 微妙な沈黙が落ちる。
 とはいっても子供は髪をいじる俺に対して、「いたいー」たら「くすぐったいの」たら「おだんごがいい」たら「おそらにおほしさまかく」にとんでみたり、あげくのはてには「ミィちゃんとおんなじにしてね」のような、一体俺にどうしろといいたいのかわからないところまで文句&注文をつけてくださっている。ミィちゃんはどっからどう見ても犬なのに。
 なんとなく居心地の悪さを感じて、彼女のほうを見ないようにして編み上げた子供特有のやわらかい髪は一見おさげのように見えるが、しかしただのおさげではない。
 右も左もちゃんと芸術的な編みこみになっている。
 自分の器用さにほれぼれしそうだ。
 出来上がってもなお続く沈黙に一番初め――とは言っても、対象は俺と彼女の二人だけだけど――に耐え切れなくなったのは、やっぱりというか当然というか俺で。
「じゃあ。俺は、あれがいいかな」
 ちょっと唐突すぎたかと思いながら、仕方ないのでそこは無視してもらう。
「あれ?」
「……水平線」
 自分でもくさいこと言ってるってのはわかってたから、彼女の顔はまともに見れなかった。
 かといって髪も結び終わってしまっていて、所在な下げに子供の服を整えてやる。
「どこへ行っても還ってこられるように」
 不思議そうに見上げてくる子供に微笑ってやって。
「スイヘイセンってどこ?」
「海と空の間だよ」
「おとなり?」
「そうだよ。だからいつでも会えるねって」
「ええ〜、なんかやだあ。おとなりさんじゃなくておんなじおうちがいい」
 どこかピントのはずれた子供ながらの主張にそうだねとなでた頭は小さくて、どうしようもなく愛しいと思うのに、血のつながりさえも必要ないんだろうと感じた。









水平線―――空の青と海の青が、混ざりあうトコロ。



どこまで行ってもかえってこれるよう。

キミが。

どこまで行っても必ずかえる。

俺は。



キミのもとへ。 









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